ADAPTATION DESIGN

東京藝術大学の大学院生と武蔵野美術大学の教務補助の二足の草鞋を履く男のブログ

Portfolio 001

No.53 私が過去に作った作品紹介です。今回は大学を卒業する際に作った卒業制作を記事にします。

 

私の卒業制作はデザインをすることについて考えることから始まった。大学にはモノをデザインできる人になる為に入った訳だが、多くのモノに触れてきて、このモノの溢れる世界に私が新たにデザインすることの意味やその責任を負うことについて考えるようになった途端に、身の周りにあるデザインの希薄さやデザイナーの無責任さにばっかり目がいくようになっていた。産業革命と同時に発生したデザインという概念は160年という短い間に人々の生活を豊かにし、文化として多様化の道を歩んだ。しかし、近年のデザインの中心にある考え方はとても商業的で、人々の購買欲を煽るものやヴィジュアルが主な役割で、大河のように次々と生み出され、流されてゆくデザインは経済的な成果をあげることを目的とした成功例の模倣を繰り返すだけの存在になっており、問題解決と称されるデザインは果たしてその役割を果たしてきたのだろうか?決してデザインはポピュリズム的で表層的なものではなく、その思想や概念が本質であり、不断に変化し続けなければならないと考える。生活が豊かな私たちに必要なことは目先の流行から生まれる新しいモノではなく、これから私たちが生きていく上で本当に見つめなければいけない未来に通じる新しい思想や概念なのだ。これはAnthony Dunneが発表したスペキュラティブデザインにすごく近い。問題を解決するのではなく問題を提起する。文化の成熟した私たちにこれから必要なのはモノではなく哲学だ。今回、2つの制作物を提出した。それぞれ一つのテーマを元に近未来と遠い未来を想定し、その時代に存在するものを作り出すことで今ある問題を洗い出そうとした。

 

 

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 一つ目は「Stand by me」というタイトルで、限りなく遠い未来を想定したものだ。止めどなく生産されるモノによって排出されるダイオキシンや追いつかないゴミ処理の問題から生まれた病原菌によって感染症がパンデミックし人類が大幅に減少した世界Xにおけるデザインや価値について考察した。現代では多様化による選択肢の多さこそが人に自由を与え、幸福にすると信じられている。しかし、選択をするたびに無意識の喪失感に襲われ続けていることを知っているだろうか?何かを選択するということは、裏を返せば選択しなかった何かを失うことと同義なのである。世界Xにおいてモノを創造や廃棄することに対して恐怖を抱いており、その無意識の喪失感でさえ嫌悪するようになった。その感情に抗う手段として「再生」に対して価値を見出すようになっていった。その昔、西洋で石に永遠を感じ、東洋が木の朽ちてく姿にはかなさを価値として捉えていたように、その世界においてモノの廃棄や創造に対する価値は薄く、「再生」に価値を置いている。それは今までモノを廃棄することにためらいの無かった人が唯一捨てることのなかったモノの中に肉体があるからだろう。それは再生を繰り返すことで人に所有され続けてきた。この世界Xの彼らは新しく生まれる新生児に同じDNAを使用し作られる椅子が与える。それは所有者のの身体的特徴を引き継ぎながら成長をしてゆく。よく使い触る部分の皮膚は硬くなり、体重がかかる部分は太く大きなものに育つ。そして、傷ついた場所にはかさぶたができ、数日できれいに治る。これはモノを粗末に扱ってきた人間の贖罪であり、戒めである。私はこの椅子を「肉(chair)」と名付け、写真を媒体として作品にした。「chair」は英語で椅子、フランス語では肉体という意味があり、哲学において私たちが捉えることのできるパースペクティブ的で一面的な表面の「見えるもの」に対して、認識していても視覚として捉えることのできない裏側に存在する「見えるものの見えないもの」をモノの奥行とし、そこに存在する本質的な部分を肉(chair)と呼ぶ。つまり、モノの形態ではなくそのモノの時間や経験までも内包した「見えるものの見えないもの」を知ろうとすることが大切なのであり、現代に蔓延る問題に考えを巡らせるところにこの作品の本質がある。今回、写真を表現の媒体として選んだのにも理由がある。この2枚の写真は2人の女性を多視点から捉えコラージュしたものである。それは人が一度に見ることのない肉体の集合で、手法としてはキュビズムを用いている。しかし、ピカソやブラックのように対象の極端な単純化は行わず、その境界をあいまいにすることで残るリアルな身体的特徴によって生まれるリアリズムを優先した。

 

 

 

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2つ目は「One’s interior virtue」という作品である。「隠された許容」という意味で、これは限りなく近い未来を想定したものだ。私たちは当たり前のようにいるモノといらないモノを選別する。その許容と拒絶を分ける基準はあいまいで不透明だ。なぜ、ここまで人は簡単にモノを捨てることができ、抵抗を感じないのだろうか?それはマクロな単位でしか語られることのない問題に、人々が安心しているからだ。このぬるま湯に浸かりきった現代人に響くものはもっと本質的で無意識な部分の問題なのだ。今回、「無意識の拒絶」をテーマに、人間の髪の毛を使用した作品を制作した。人は伸び続ける髪の毛に「生」を感じているが、その存在は時にして畏怖の対象になり得る。毎日洗い、整える人の印象を左右する髪の毛ですら、切られて床に落ちていった瞬間に嫌悪感のあるモノへと変化し価値観が変わる。人は肉体から離れた身体を極端に嫌う。それは切れて落ちていった髪の毛に「死」を見るからで、これを「無意識な拒絶」とするなら、人がモノを捨てる動機はここに由来しているのではないだろうか?人は役割を終えたモノに少しでも「死」を感じているのかもしれない。私は今回、この死生観や価値観の短絡的な変化に注目した。もし、一度拒絶されたモノを再構築することで人の中に新しい価値が生まれるのであれば、そこには人とモノの間に新たな関係性が生まれるのではないだろうか。とするなら、それは立派な隠された許容と言えるだろう。そして私はこの「無意識の拒絶」がこれから新たな文化を築く上でとても大切な感覚であると考える。現代人は五感の退化と引き換えに様々な文化を獲得してきた。もし、その五感の機能を失っていった時、それに代わる新たなツールが必要になる。今まで無意識に拒絶してきたことを明らかにすることで、デザインや文化は新たな領域を見つけることができるのではないのだろうか。

 

 

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adaptation-design.hatenablog.com