ADAPTATION DESIGN

東京藝術大学の大学院生と武蔵野美術大学の教務補助の二足の草鞋を履く男のブログ

Column 「快楽の漸進的横滑り」

初めて高田馬場にある早稲田松竹に行ってきました。ここでは交流こそないもののインテキネマがやりたい最高のニッチな映画体験を何十年も前からやっている聞き行ってまいりました。2本立てで1100円というお得な値段設定に加え、夜間割や映画の日割などとてもリーズナブルな値段で日本で公開されていないような映画が見ることができます。私は今回時間の都合上、2本目のみの鑑賞でしたが夜間割の800円で2時間弱の映画を観てまいりました。今回の特集はアラン・ロブ=グリエ監督で、私は知らなかったのですが、フランス文学で一時期盛んになったヌーヴォーロマンを代表する小説家として知られているようです。題名にもありますが「快楽の漸進的横滑り」という映画を観てきました。

 

ここからネタバレを含む感想を書いていきます。まだ見てない方は戻ることをお勧めします!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タイトル「快感の漸進的横滑り」を見ても何の映画かは分かりませんよね。私も全然分かりませんでしたが、映画の紹介文に載っていたこの一文と映画のワンシーンの写真に一目惚れしてこの映画を観に行くことを決めました。

 

f:id:takuto-interior:20190508105417j:image

“本作について、「この女性は来るべき革命の希望を体現しているのだ」とロブ=グリエ自身は語るも、公衆道徳に反するともみなしうる先進的表現が物議をかもし、各国で上映禁止、フィルムが焼かれる事件まで発生した。”

 

いや、こんな文章観たら観たくなるのが映画ファンの性というものです。先進的表現とは…そこまで物議をかもした内容とは…人が何かに反発を示す時、それだけ人にとって大事な何かが発生する時だと考えている私にとってこの作品が引き起こした反発はなぜ起こったのか知りたくなりました。実際に作品を見てみると、表現に傾倒している私にとってそこまでセンセーショナルな表現ではないと感じたものの、作品の持つ力はしっかり受け取りました。

 

映画のあらすじや内容は詳しく書かないので他の方のレビューを参考にしてください!

 

 

私個人的な感想はホドロフスキーの映画を鑑賞した時に近く、徹底した絵作りに作者の趣味嗜好を存分に盛り込んだカルト映画だというものです。この映画の場合、アラン・ロブ=グリエの考える快楽やエロスをロリータのもつインモラルさやサイコパスな感覚をファムファタールとして描いたというのが私の解釈です。主人公の女の子の小悪魔的魅力に引き込まれつつもその内面の薄さや奥ゆかしさに、映画を見ている私たちは馬鹿馬鹿しいと思いながらも上手く惑わされてしまいます。この映画の中盤で登場した弁護士がいうセリフがとても印象的で「あなた少し遊びすぎよ、類似、繰り返し、置き換え、模倣もう沢山」とメタ的な発言をすることで映画を見て戸惑っていた私たちに救いを与えてくれるところがとてもチャーミングでした。

 

映画自体はループ構造で空想と現実が入り混じるマジックリアリズムのような世界観が展開されており、これが小説でいうヌーヴォーロマンなんだと思います。「客観的な事物描写の徹底」こそがヌーヴォーロマンであり、文脈からかけ離れたセリフを唐突に発したり、律されてない行動が繰り返されることで、観客である私たちを物語に没入させることなくいつまでも客観的に映画を鑑賞させるます。メタ発言が映画の要所要所であるのもその役割を担っています。映画の中でSMのような趣向や人と人が絡むシーンがありますがそのことについて「観客が喜ぶから」と主人公の少女は言及します。胸を触ったり、裸になったり、キスをしたりするシーンは監督の表現であるにも関わらず、これを使役的にしているのは観客であるといったのはとても批評的だと思い関心しました。映画というメディアそのものの持つ表現の弱さや作り手の矛盾を捉えているのでしょう。

 

この映画が前衛的な表現で世間の反感をかった部分で思い当たるシーンはいくつかありますが、個人的に好きだったシーンがあります。主人公の少女が好いていた先生が浮気性であったため、死んでしまえと願ったことでたまたま崖から落ちて死んでしまいますが、崖下で死んだ先生に駆け寄った少女は悲しむどころかその服をちぎり胸をはだけさせ愛撫した上で唇にキスします。なかなか他の映画では屍姦するところなんて見ないシーンですよね。その後他の女学生にはだけた胸に置いてある手やキスをしたことで唇についた血について問われますが、「心臓マッサージや人工呼吸をしようとした」とカマトトぶりながら言い訳します。映画の中で少女は「美しい死体を作りたかっただけ」ととても印象的なセリフを言います。この映画は構造的に少女がマネキンのような親友を殺したか刑事に詰められるところから話が生じ、最後に親友に似ている弁護士を誘惑しマネキンのように殺すところで話が結しますが、最初から最後まで少女はネクロフィリアのような死や痛みを快楽と同化させるような嗜好を貫きます。もしかしたら悪魔のような彼女にとって死と美は遠くないのかもしれません。

 

私の中で好きな映画になるかどうかの基準として「絵作りの弛緩がない」ことがあります。その基準に照らし合わせてこの映画を評価するなら、私はとても好きな映画でした。ホドロフスキーにも共通して言えますが、すべてのシーンが絵画的でその緊張感を緩めることはなく幻想の世界へ私を誘ってくれます。この映画はエンターテイメントではなくアートです。きっとシーンに描かれていた嘘に嘘を重ねた事で作り出された真に重ねた嘘は一切読み解くことはできないでしょう。アラン・ロブ=グリエが示したテクストを自分で構築していくことで得られる思考の快楽は、現代人が心理描写やライド感から一方的に与えられた仮初の快楽について、改めて問い直しているような気がしました。

 

このタイミングでこの作品に出会えてとてもよかったです。

ではまた!

Column「都とバンクシーに見る作家と作品の距離」

まだやっていますが日の出の防潮扉に発見されたバンクシー作と思われるネズミの作品が都庁で公開されていますね。これについて少しばかり思うことがあるので書いていきます。

 

f:id:takuto-interior:20190504144505j:image

 

 

美術手帖に詳しい記事があるのでぜひ読んでみてください。

 

 

さて、なぜこの記事を書こうかなぁと思いたったかと言いますと、今ちょうどヴァンダリズムやダダイズムなどの表現にすごく興味があるというのが大きな理由になります。作者不明で世の中で破壊行為とされる作品がなぜ、ここまで騒がれるのか、そして何が本質なのか、そんな事を考えてしまいました。今回のこの騒動はかなり私的にも響くものがあり、まとまりはないものの、思ったことをつらつら書き連ねていこうと思ったわけです。

 

まず、一連の流れの発端は東京都知事である小池さんがSNS上に一枚の写真を載せたことで始まりました。それを受けた一部の人が火種となり炎上するわけですが、それにめげない小池さんは防潮扉を外し東京都庁でガラスケースに入れて一般公開と銘打ち展示します。詳細は知らないので間違っていたら申し訳ないですが、大まかな流れはこんな感じだったと記憶しています。調べれば出るので詳しいのが知りたければ調べてください。ここで気になるのがまずなぜ公務に関わる姿でミーハー根性丸出しな投稿をしたのか、そしてその炎上した投稿に寄せられまくった「都は公共物への破壊を許容するんですか?!」などといったコメント、本物である可能性があるから防潮扉を外し都庁で展示するそのよく分からない理論、などなどいくつか個人的に疑問なポイントがあるのですが、ここでは最後のポイントに絞り話を進めていきたいと思います。あ、今回私はこの件を批判したいわけではないのでご理解ください。

 

今回の件で思うのが表現はやっぱり面白いし難しいと思いました。バンクシーが行なっているようなグラフィティという文化はそもそも法の元において違法行為、破壊行為として位置づけられ、社会というコミュニティの中で評価されてはいけない存在であるといえます。しかしながら、時に内容の持つ政治批判や作品の持つ力によって社会から同調を受けることもあり、その違法行為自体が社会に許容され保護されてしまうケースがしばしばあります。またグラフィティーが街に描かれる理由には様々な理由があり一括りにすることもおこがましい多様な文脈が存在しているため、この行為全体を捉えて批判することは難しいといえます。ですが、前提として反社会的行為という意識が作者側にもあるため、消されても別に文句言えないことや上書き、風化していく事は十分に理解して行なっているはずです。さて、バンクシーが作家として政治批判や物語性のあるグラフィティーを描くことは有名ですが、彼の作品はその場所や時代のコンテクストを多分に包括したものが多いため、表現として誰に対していても公平に開かれている事、人知れず作者不明の作品である事(バンクシーは有名になってしまいましたが…)が前提としてあり、作品に込められた意思やメッセージを純粋に伝えようとしているのだろうと勝手ながらに私は解釈しています。さて、この事を踏まえた上で日の出にあった防潮扉の絵について見ていきたいと思います。

 

今回の騒動で私の中で興味があるのが小池さんの行う行為が作品の意味性に対してことごとく真逆な方向に向かっていると感じた所にあります。まず、反社会的行為であるグラフィティーを政府の人間が評価する事、本来犯罪者であるはずの作者を名指しで取り上げ本物なら連絡を下さいと呼びかけた事、土地のコンテクストを無視し一部を切り取り保護した上で不特定多数の人間に開かれていたはずの作品を一般公開として展示した事、ネズミというモチーフを活かした位置にあった作品を腰くらいの高さに展示した事、ここまでグラフィティーの持つ意味の真逆の道を歩める小池さんはグラフィティーを評価していたのではなく、ただ消すだけでは拭い去れない文脈を正面から潰しにかかろうとしてるのではないかとすら思えてしまいます。また作品が本人が描いたものかどうかにに拘りを持っているところも気になりました。ステンシルを用いたグラフィティーの製作や施工は他のグラフィティーや製作に比べて非常に単純なのでそこに作家性は存在し得ません。本来作者不明である事が前提であるグラフィティーアートにおいて、単純作業で生まれた作品を本人が製作したかどうかは大事な項目ではないような気がします。評価をするとするならやはり土地の文脈を踏まえた上での意匠だと思います。そこに作家の名前は存在してはいけません。

 

ここまで騒がれたバンクシーはどう思ってるのでしょう。作品を描いた文脈は自分の意思と違う方向に向いてしまっているのか、はたまたこの騒動も込みで土地の文脈を踏まえた作品なのか、名前が世間に評価されてしまった事に対する反発なのか、表現というものは面白いし難しいと思った理由はここにあります。また、作り手の意思や意識と作り手の名前や表面的な何かを引き離す事の難しさをこの騒動を通じて感じました。私の目指すスペキュラティブデザインが投げかける問題提起が含む意味性と作者である私自身の距離間はどのようなものが適切なのか、そんな事を思いながら日々のコンセプトメイキングをしています。

 

まとまりがなく何が言いたかったのか分からなくなりましたが、言葉にはならないものの思う事があったので記事にしてみました。

 

ではまた!

 

 

Column 「アベンジャーズ エンドゲームを見て」

アベンジャーズ/エンドゲームを見ての感想。ネタバレ全快編です。公開してすぐなので見てない方は読まない方がいいです。

f:id:takuto-interior:20190503115518j:image


アベンジャーズにはまったく詳しくないのですが、それでも一応シリーズ通して全部見てきた私の感想を勝手に書いて行きたいと思います。一個人の感想なので何が書いてあっても気を悪くしないで下さい。

 


公開順 


【フェイズ1】


●2008年公開
『アイアンマン』
『インクレディブル・ハルク』


●2010年公開
『アイアンマン2』


●2011年公開
『マイティ・ソー』
『キャプテンアメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』


●2012年公開
『アベンジャーズ』


【フェイズ2】


●2013年公開
『アイアンマン3』
『マイティ・ソー2』


●2014年公開
『キャプテンアメリカ/ウィンターソルジャー』
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』


●2015年公開
『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』
『アントマン』


【フェイズ3】


●2016年公開
『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』
『ドクター・ストレンジ』


●2017年公開
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー2』
『スパイダーマン・ホームカミング』
『マイティ・ソー/バトルロイヤル』


●2018年公開
『ブラックパンサー』
『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』
『アントマン&ワスプ』


●2019年公開予定
『キャプテン・マーベル』
『アベンジャーズ:エンドゲーム』


【フェイズ4】


●2019年公開予定
『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』

 


時系列順


1.『キャプテンアメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』
2.『アイアンマン』
3.『アイアンマン2』
4.『インクレディブル・ハルク』
5.『マイティ・ソー』
6.『アベンジャーズ』
7.『アイアンマン3』
8.『マイティ・ソー/ダークワールド』
9.『キャプテンアメリカ/ウィンターソルジャー』
10.『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』
11.『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』
12.『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー2』
13.『アントマン』
14.『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』
15.『ドクター・ストレンジ』
16.『スパイダーマン・ホームカミング』
17.『ブラックパンサー』
18.『マイティ・ソー/バトルロイヤル』
19.『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』
20.『アントマン&ワスプ』

 


このサイトを参考にしました。観る順番やおすすめを書いていてとてもいいまとめです。

 

 

 

 

 

 

ネタバレしますよ?いいですね。

戻るなら今です!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


アベンジャーズ エンドゲームの素直な感想は上手くまとめられてて、約10年感が無駄にならなくてよかったです。長い年月と大勢のスタッフの関わったこのシリーズがある意味で一つの終わりを迎えたことと、この歴史的な快挙を目の前で体験できたことをよかったと思います。しかしながらキャラクターを描く事へのフォーカスが強すぎるが故に、ヒーローとしてアベンジャーズが存在するべき理由が結局ないまま終わったのがとても残念でした。それと同じくらいサノスの描き方も納得いきませんでした。その理由について書いていきますが、まず嬉しかったシーンを書いてみたいと思います。

 

「個人的に好きだったシーン」

 

まず、映画を通してのキャラクター感の間に存在した軋轢や関係を一つ一つ割と丁寧に拾っていった点です。トニーとお父さん、スティーブとペギー、ソーとお母さん…などなど今までどこかキャラクターが抱えてきた心残りな部分が時代を超えて解消されるシーンはすごくエモーショナルで良かったです。

 

ヒーローとしてありがちなパワーアップするシーンがキャプテンアメリカだけに留められていた事。ヒーローものでありがちなパワーのインフレが起きなかったこと。まぁキャプテンマーベルについてはあえて触れないですが…。

 

スタンリーがこの映画にも出てた事。

 

グルートが帰ってきた事。

 

トニーの死をちゃんと描いた事。

 

アクションシーンが少なかった事。

 

女性アベンジャーズ集合があった事。

 

 

「個人的に不満だったこと」

細かく言えば気になった点はいくつかありますが、一番不満だったのは消え去った半分の生命が戻ってきた時の一般市民の反応やその後の世界が描かれなかった事です。サノスの指パッチンから5年も経ち突然の喪失感からは立ち直れないものの、生きている残された半分の人々は必死にその環境に適応しようとしていました。しかしながら、アベンジャーズが取り戻した世界は5年経ち荒廃した世の中に消えた人がただ戻ってくるだけの状態で、そこで生まれるカオスや混沌については一切触れません。彼らが本当に取り戻したかった世界はサノスの手が加えられる前の世界だったはずです。しかしながら彼らはインフィニティーストーンを揃えながらも、その選択をしませんでした。それはトニーに娘がいたからなのでしょうか?はたまたそれ以上の理由はあったんでしょうか?個人的にはその理由を描く必要や責任はあったと思います。もしトニーが協力した条件が娘を失いたくないというものだとしたら、トニーは最後までとてつもないエゴの塊であったと思ってしまいます。さらに最後、トニーが指パッチンでサノス軍を壊滅させます(過去に送り返す?)が、結局それも目線を変えれば大虐殺に変わりは無いわけで、戦争の決着を殲滅で片付けてしまうのは、仮面ライダーで怪人が爆発して終わる的な、結局ヒーローはヒーローでしかないと言える結末にはがっかりしました(もしかしたら過去に送り返してる可能性もあるため一概に否定はできませんが、煤の用に消えていく表現は消滅の時と同じだったので殲滅と捉えました)。一方、サノスの描き方にも不満が多く、インフィニティーウォーのサノスは理不尽で極論でありながらも彼なりの強い信念を持ちながらも(まぁそもそも宇宙を司るパワーのあるインフィニティーストーンを持っていて世界を救いたいなら他の願いでもよかったのではないのか?と思う自分もいますが…)娘であるガモーラを失い涙を流し、自身も傷みながらも世界を救いたいという気持ちを持ちながら虐殺を繰り返していました。しかしながらエンドゲームでこの半分にするという理由らしきもの「地球だけは虐殺を楽しませてもらう」とまだ石を集めてないサノスの口から出てきてしまい、虐殺は仕方なくやっていた事ではなく、それを楽しめてしまう心があったんだ、結局ヴィランはヴィランでしかなかったんだ…とインフィニティーウォーで感じた新しい感覚は全て無かったことにされてしまいました。

 

作品として筋を通すならアメリカンスナイパーでお父さんが言っていた言葉「人間には三種類のタイプがある。羊、狼、番犬だ。「羊」は世界はいつも平和だと考えたがる。だから危険が迫ると、どうやって自分を守るか判らない。「狼」はその羊の弱さを知り、暴力で襲い掛かる。そして、生まれ持った強い気質で、羊の群れを守るため狼に立ち向かう。それが「番犬」だ。」が示した目線を変えれば敵にも味方にもあったんだという落ちでも良かったと思うわけです。今までのアベンジャーズが抱えてきたヒーロー感(エイジ・オブ・ウルトロンやシビル・ウォー)の解決がエンドゲームでなされると思っていた私からすると、このエンドゲームではアベンジャーズが正義だと思って行動した結果得た結末によってまた苦しむ人がいる事やサノスの指パッチン後の世の中で幸せを手に入れ始めていた人もいるはずで、ヴィランとヒーローが表裏一体である事を描くべきなのではないでしょうか?ソーが無抵抗なサノスをなんの躊躇もなく殺すシーンが来た時はその期待値はすごくあがったんですが…。やっぱりもう少しその辺のリアルを描くべきだったと思いました。例えば半数の人間で5年間で繋いだ食料の備蓄に倍の人間が降りかかる訳ですから生まれる貧困や混乱など…。まぁグダグダ言ってもしょうがないですが…。

 

もう1つ大きな不満があるとするならタイムパラドックスの描き方です。これについては矛盾や映画的なご都合主義が多く見てられないシーンも多かったので具体的に指摘していくのは止めますが、ピム博士が戻ってきてしまった現在、タイムマシンの存在や可能性は無限になってしまいました。ソウルストーンの戻し方や過去改変に対する姿勢などにも疑問は多かったです。

 

ただ、総評するなら楽しい映画でした。不満をタラタラ書きましたがぶち上がるシーンも多く結果面白く、今までにない映画体験をできたことを幸せに思います。まだスターウォーズという大反省必須の映画が待っているのでそこまで英気を養っておこうと思います。

 

ではまたー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

HOMOLYRIC 「椅子」

重い空気を引き裂くように差し込む朝日が眩しい。脚元の杉の床が呼応するように光を吸い微かに軋めき合う。割れた窓ガラスからは木枯らしが吹き込み、巻き上げた埃がゆっくりと私に降り積もる。既に身体の半分を蝕むカロライナジャスミンの存在を特に否定することもなく時が流れていく。

HOMOLYRIC 「理」

少年はなんとなくそこにいた虫を踏んだ。
それは感触の伴わない命のやりとりだった。
足をどけた先にポツリと残った骸に少年は少しばかりの罪悪と快楽を感じたが、それは刹那であった。
変化のない死骸に興味を失い、少年は次の快楽を求めてそそくさと立ち去っていった。
潰れた虫はしばらく孤独を味わった後、蟻たちによって運ばれ私の前からいなくなった。
言い得ない喪失感ともどかしい感情が心の奥の方で湧き起こったが、それもまた刹那であった。

HOMOLYRIC 「驕り」

待てども待てども来ない
来る気配を微塵も感じない
どれくらい待っただろうか
時間が刻々と過ぎてゆく

 

絶対に来るはずなのだ
来ないとおかしい
そう、来ないとおかしい
来るまで待つがもう我慢の限界は近い

 

もういい加減にして欲しい
なぜ来ないんだ
何が起きたというんだ
きっと来ても喜びよりも怒りが先だろう

 

今は来ないのかもしれない
そうでないと辻褄が合わない
きっとそうだ
今は来ないそう思うことにした

 

いや、そんなはずはない
必ず来ると聞いている
来ないことはない
自分を信じなくてどうする

 

これは来ないんだろうなぁ
こんなに待つとは思わなかった
来ないとどうなるんだろう
私は1人きりで待ち続けるかもしれない

 

待ち過ぎて何を待っていたのか忘れかけてきた
だからそんなものはなかったと思うことにした
この先仮に来たとしても
私にとってどうでもよい存在に変わっている

 

やっぱり来ない
みんなが望んでいたものはこんなにつまらない物だったのか
第一に私は来ないことを望んでいなかった望んでいる人は他にいたのに

 

私は特別な存在なんだろうか
もしかしたら選ばれてしまったのかもしれない
来るはずのものが来ないのだ
今まで感じていた疎外感がなぜか特別感へと変化していた

 

これからどうしようか
来ないことで私は神と呼ばれるようになった
私のいうことをみんな聞く
悪くはない

 

あっ、来た
なんだ来るのか
前に抱いた怒りとは違う怒りが
私を包んだ

HOMOLYRIC 「風」

「地下の車窓から冷たいコンクリート見ると
反射した車内の温風は光の塊に顔を吸われ
小さな箱の無限に夢を定義される
止まった鉄の塊は我慢していた息を深々と吐き
風達は飼い慣らされた羊のように進みだす
斜陽に立ちながら得たものを数え
その儚さに無力さとほんの少しの希望を携え
無常の風に混ざって消える」

 

この半年くらい詩を時々書くようにしています。自身の言語表現力の向上が一番の目標で、その時思った事や感覚をそのまま書き記します。ふとしたブログの息抜きとして時々上げていければと思います。

詩を書くときのペンネームを「HOMOLYRIC 」にしました。人間の為の人間による人間を描いた詩を目指しているからです。